Living Research

スペキュラティブデザインが問いかける未来の生命倫理

with Thought Collider

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Thought Collider

アムステルダム, オランダ

Thought Collider(ソート・コリダー)はアムステルダム(オランダ)に拠点を置くマイク・トンプソンとスザーナ・カマラ=レレットのデザインデュオ。アートとデザインの観点から、新しいテクノロジーがもたらす潜在的な未来の構築や生活環境の変容を探求している。

 

Latro: 藻をエネルギー源として発光するランプ

2010

by Mike Thompson (Thought Collider)

Thought Collider

"これがあなたの望む未来なのか?… 私たちはそこにどういった可能性や意味が秘められているのかを探求し、社会との対話や議論を誘発しようとしています。" 

- Latroを未来の断片として捉えると、考えられる未来の断片を見せることの可能性についてどう思いますか?あなたのプロジェクトにおける問題意識とモチベーションはどのようなところにあるのでしょうか?

マイク・トンプソン(マイク)それは私たちがこのプロジェクトで気づいたこと、それと未来を提案することについてですが、そこには「これがあなたの望む未来なのか?」という社会に対する問いがあると考えています。これは極めて重要な次のステップだと考えていて、技術の進歩に関して、これまで一般市民を巻き込んだ議論は蔑ろにされてきたのではないでしょうか。

私たちはあまり夢想的になりすぎないようにしており、私たちがとるアプローチにはもっとクリティカルな学びが大きいのですが、そこにどういった可能性や意味が秘められているのかを探求し、社会との対話や議論を誘発しようとしています。どうやってこの種の技術が発展し得るのかに関して、科学研究者や技術者に対しても同様に。

スザーナ・カマラ=レレット(スザーナ)私たちの取り組みは、未来はこうなるべきであるという考えを示すヴィジョンというよりは、今後起こりうる可能性の探求といえます。そうした可能性をかたちにすることで人々はそれらが実現した時に実際にどのような意義を持つのかという問題に様々な意見を交わすことができるようになると考えています。

マイク:Latroは様々な観点からもスペキュラティブデザイン以上のプロジェクトで、Latroは一般的な生命体との共存が何を意味するのかという人々の想像を捉えているのです。Latroが本当に意味することは、このプロダクトはある種の生き物であり、呼吸している存在だということ、つまり人々は副産物として光を発するペットのようなランプ、意のままに付けたり消したりできないランプを取り扱うことになります。これは私たちが普段考えるランプの概念を覆します。

それは「誰が誰を支配してきたのか?」という問いでもあります。なぜなら、このランプに関して、私たちが光を得るために藻を生かしているから、人間がこのランプを支配しているかのように思っていますが、一方で実際は違うんじゃないかという議論も介入することができ、そこにはおもしろいパラドクスが存在します。

人間は大きな仕組みの歯車の一つにしか過ぎず、大きなパズルの一つでしかないという事実を理解した時から、自分たちの環境との関わり方、私たちがいかに環境に影響を与え反対に自分たちにどのような影響がもたらされるのかという全体的な視点を提唱し、一般的に捉えられがちな人間中心的な考え方にに対して取り組むようになりました。
デザイナーの役割についてよく考えますが、それはこの全体のシステムの中で正にどこに人間が適するのか、無秩序な既存のシステムに対してどうやって補完的に、バランスを維持するかの探求だと思っています。

デザインは本質的にはテクノロジーと人々の交流を扱うものだと思っていて、こうしたテクノロジーがもたらす経験が持つ意味や価値というものにはとても関心があり、Latroもまたこうした系統のプロダクトです。
私たちがLatroを開発するとき、50年もの間植物の電源としての潜在性に関心を寄せていたバーギンガム大学の研究者と一緒に取り組んでいましたが、彼は「私たちは確かに植物から電気を取り出すことはできますが、果たしてそれを行うべきでしょうか」という極めて重要な問題を指摘しました。

私たちは作品が扱うテクノロジーがどのような意味を持つのかという問いかけが必要だと感じており、テクノロジーの良い点も悪い点も含めて誰もが最善だと思えるような道へと社会が決断できるよう手助けするために、可能性を提示しているにすぎません。楽観的にも見えますが、それはあなた方がこの議論に人々を参加させると決めた経緯についてでもありますよね。

- 社会にスペキュラティブなモノが受け入れられ考え方が浸透するには、実際にモノを導入してみるだけでなく価値観のパラダイムシフトが同時に必要になるのではないかと考えますが、

マイク :私たちは人々の頭の中にアイデアの種を残すことの力を信じており、もしあなた方が展示会を訪れた人たちの頭の中に種を残すことができたなら、その瞬間ではなくともその種は成長し続けあなた方の考えを本当の意味で理解し、可能性を受け入れるときがくると思います。

スザーナ : あなた方はSFや未来志向のようにも見えるすでに起こっている物事に光を当てているとも言えますが、実は一般レベルで伝わっていないだけで、少し奇妙とも思える革新的なプロダクトはたくさん存在しています。
ウィリアム・ギブスンの「未来はすでにここにあるが、ただ行きわたっていないだけだ」という言葉にもあるように、私たちは自分の周りで起きている、異なる動向に関する知識が不足しています。私は今回のような展示はこうした議論を浸透させることができると思っていて、これは来場者への「どうこの議論に参加するか」「どの規模で変化の過程に貢献できるか」という問いにもなることでしょう。

私たちは基礎的な知識や科学の創造に貢献し、より複合的な方法で新しい核心を探求するため、最近科学的な枠組みのなかでデザイン実験を行うなど、科学領域でのコラボレーションを進めています。それはヨーゼフ・ボイスが「自由の科学」と表現したような、何の規制によっても制限されず、より複合的な文脈を追求し様々な視点を育む場を促進することができます。

最近私たちは様々な領域が組み合わされた探求を公の場で実現しつつあり、一般の人々をこのプロセスに巻き込むことにより、テクノロジーが市場に出る前に、それらのリサーチや科学的な知識の創造に彼らが関与するようになっています。

"私たちは何を食べものであるかという境界線を改めて考える必要があるかもしれない。"

- ユバル・ノア・ハラーリは著書「サピエンス」において、文明が発達しても人類は必ずしも幸せになってきた訳ではないことを示唆しています。例えば農耕に関していえば、農耕生活以前私たちは狩猟生活をしていましたが、農業革命が起き私たちの生活は大きく変化しました。農業革命により私たちは大変な肉体労働による身体への悪影響、さらには格差や搾取なども生み出したといえます。これからの農耕、食との関わり方について何かビジョンはありますか?

マイク :あなた方がこのプロジェクトで示唆していることは、農村部から都市部へ、さらには都市から国家へとのシフトがあるということ、農業活動において特異な変化があるということだと考えますが、見方によればそれは産業革命のときに起きたこととあまり変わらないかもしれない。

産業革命以前は家畜や食料、食べ物やエネルギーがどこから来るのかということとより調和した生活を送っていて、時間が経つにつれ人間と自然との距離は広がっていきましたが、近年オーガニックムーブメントや家庭菜園などの自分で作る動きがみられ、そこには土地との関係性を取り戻そうとするマインドセットがあります。

しかし地球上の膨大な数の人口を考えると、誰しもが自己生産者だというシステムに回帰することはとても非現実的で到底持続可能には思えません。自分で農業をしてみるという試みは産業化されたものを補完する実践であり、産業に置き換わることではない。私はこの両者間でより良い共生が必要だと思っています。

私たちはもはや狩猟採集民族ではないということには大いに賛成で、私たちはやけに快適な世界を作り上げてしまったと思います。そこでいくつかの興味深い課題が出てきます。面白い例としてトュリー・ハガーの創設者であるグレアム・ヒルがTEDで提唱したウィークデイ・ベジタリアンという考え方を挙げると、彼はベジタリアンであることは環境や経済的に、さらには摂取する肉の量を減らすと心筋梗塞やガンのリスクを減らすことができるなど、人体の健康にも利点があるといいます。それは何か産業化する以前の風習に再び立ち戻るきっかけになるかもしれません。

スザーナ : 地域に根ざした習慣を守っていくことを提唱することはとても興味深いポイントで、なぜなら議論は何らかの方法で文脈化される必要があるからです。農業と食品産業はスペインと英国、日本、アメリカと同じものはありません。そこであなた方は遺伝子組み換え作物などの法的な問題や、伝統料理への影響などの問題に突き当たるでしょうが、こうした文脈化された問題にもっと私たちは目を向けるべきだと思います。

それともう一つ、生命は文化であるということです。もし私たちが多様性を守ることができず単一な文化へと突き進むことになれば、私たちは自分たちの遺産の一部を失うことになるでしょう。それは何も物質的な話にとどまらず、長い年月をかけて発展させてきた文化的な遺産をも脅かすことになる。
こうした問題に包括的な議論を展開することはとても難しいと思いますが、私たちがいくつか異なる文脈を提供する必要がありますね。この点に関して、日本ではどうですか?

- 日本に関しても食文化の均一化は様々な要因で懸念はされていますが、自国の食が侵食される以上に、テクノロジーの発展により、藻や本物の肉や牛乳でない何らかのものがこれから先、新しい食料の形として受け入れられる未来に関する潜在的な倫理的規範に対する意識もあるかもしれません。もし食の形が根本的に変わったら、もし私たちが微生物や本物の肉でない何らかのものを食べるようになる、それは今の食事と同じといえるでしょうか?

マイク :あなたの指摘はとても核心をついたもので、私たちは何を食べものであるかという境界線を改めて考える必要があるかもしれない。例えば昆虫に関して、まだヨーロッパにおいて昆虫を食べることは嫌悪感を抱かれていますが、世界の他の場所では食虫は一般的な風習でもあります。数百年前から現在に至るまで享受している習慣が持続可能である保証はなく、私たちはより柔軟に心を開き、賢明な判断を下す必要があると思います。バイオムーブメントは、非常に有益であるかもしれない特性のある様々な素材や食べ物への関心をもたらすという点に関してとても興味深いもので、藻はとても魅力的な例に挙げられます。

スザーナ :私たちの大多数は、長年の間食べ物との関係性が希薄になっているのではないかと思いますが、Latroはこうした相互関係を見直すための手段であると言えます。例えば、食べ物は単なる味覚に基づくだけではなく、人体へ化学的に作用するものであって、それはさらに体の中に生きるすべてのバクテリアへと作用します。Latroを通して私たちは自分自身を実体として捉え、他生物との関係性、食の様式、作物や家畜の育て方やエネルギーの生み出し方などを見つめ直すことができるのかもしれません。

「私たちが口にする食べ物は死んでいるのか、生きているのか」という問いに関連づけると、摂取したものはどのように私たちの体内組織に取り込まれるのでしょう?それは相互作用する生態系のかたちで捉えることで初めてそこで起きている過程を理解し始めるのではないでしょうか。

同様に、食べ物の売られ方は食べ物の真の特性をついたものというより文化的な構築物として存在しています。例えば牛乳は、骨に良いとされるカルシウムの供給源として宣伝されていますが、近年それが正しいのか、逆に骨からカルシウムを奪う作用があるなどいくつかの理論が存在しています。自分自身の体を様々な構成要素が作用し合う生態系として考えたとき、私たちはこういった関係性について問いかけ始めるでしょう。

さらにこの問いは生物学がテクノロジーになりつつある動きをも明らかにするでしょう。例えば遺伝子組み換えをされたジャガイモにはデンプンや、プラスチックを生成するための化合物を含ませる遺伝子操作がなされており、こうしたジャガイモを人間が口にすることはないと言われてはいますが、牛の飼料として使われているかもしれない、つまり結果的に人間がそのジャガイモを食するということになります。こうした作物で牛を育てることは本当に倫理的と言えるのでしょうか?
人類以外の生命との関係性に立ち戻ると、それは私たちはどこから来たのか、私たちはどうやって他の生命体と関わりを持てるのか、現状とは異なる関係を構築し、現在私たちが支援している短期的で巨大なシステムではなく長期的に考えを巡らせるきっかけになると思います。

私たちの体に含まれている分子やバクテリアも他の産業的な方法にみられ、例えば発酵に関してもバイオテクノロジーの一つになりますが、それは「私たち自身の体はどのように耕せばいいのか」という疑問にも繋がります。
そうして私たちは、いかに自然が異なる時代の様々な価値体系に基づいて定義されるかについて考えられます。私たちはそれを今インターネットというレンズを通して見ており、私たちは自分たちをプログラムすることができ、遺伝子をオン・オフすることができます。これらの実験的なアプローチはあなたに何が自然であるかの理解、自然との関係性について再考させるでしょう。

"もし人々がこのバイオテクノロジー経済に貢献することができるのならば、税制はどのようなシステムをとるべきでしょうか?"

- 今まで人に知られることなかった遺伝子組み換えや、畜産業の背後に隠される事実を公にするということはパンドラの箱のように、ある種の危険を伴うことはないのでしょうか?

マイク:それが危険だと捉えるのは確かだと思います。とはいえ情報を公開するということは生物学領域の発展における意思決定が公に開かれ、一般市民が議論に参加することを可能にさせることでもあると考えます。
典型例として遺伝子組み換えへの大規模な反対運動が挙げられますが、それはバイオハッキングの観点から起きたものではなく、生体物質に関わる全体のプロセスが民主化したことによって起きたと思っています。さらなる草の根運動が見られますが、古典的な業界は岐路に立たされているといえるでしょう。

今私たちが目にしているデザインに関するいくつかの運動は人々に、より情報に富んだ決断の機会を設け得るものだと思っています。私たちは自分の身体、精神、そして自然や農業に今まで以上に知識を持った時代を生きており、多くの人がこうしたトピックに対して深い理解と判断を持てるようになりました。この事実は、前進するためのより良い決断を下すことが可能になるという意味で今の時代の興味深い点だと思います。

他にも、こういった運動は都会と地方都市の風景の境界を曖昧にするのではないかと考えています。私たちは一般的に農作物は都会から遠く離れたところで作られているものだと考えがちですが、農業を都市へと持ちこもうという動きや、絶滅危惧種であるミツバチのために都心で建物に屋根をつける取り組みが、これから都会と地方の区別に対して長期的な視野でどういった意味を持つのか、これに対して私は答えがありませんが、反芻しなくてはならないような問いといえるでしょう。
「農風景によって私たちは何を意味するのか」。それはこれまで通りの風景ではなく、私たちが見ていないところにあると思っていて、それは自宅の庭の裏でもあり、あなたの肌でもある、そうした全てのことが農業の風景として考えられると思うんです。

- 今回のプロジェクトでは田園が広がる農村風景を残しながらも、新たな基幹産業の中心地となる逆説的な都市のヴィジョンを掲げています。こうした背景には、都市と地方が長い間断絶されてきたという事実があって、銃後的な中心と周縁の主従関係、つまりは産業や農業に関する定義を更新することが今必要なのかもしれません。例えば、農業とバイオテクノロジーという相反する要素が組み合わされた新しいヴィジョンは未来や新しい産業のシステムにおいて、一つのマイルストーンになりうるものだと考えています。

スザーナ:それは都市政策の文脈に取り込むべきものかもしれません。例えば、もし人々がこのバイオテクノロジー経済に貢献することができるのならば、税制はどのようなシステムをとるべきでしょうか?これは行政機関がこうした活動を支援することのできることの一つでもあるでしょう。私たちはその分野の専門家ではありませんが、これはとても複雑な議論で、中小あるいは大企業どちらか一方だけでは成立せず、異なるレベルで両者の領域横断的な議論がなされる必要があると思います。

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Domestic Futures Exhibition, photo by Linn Ahlgren/Nationalmuseum

Interview & Text : Marika Nakada (EUGENE KANGAWA STUDIO)